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1990 [かたち]

1990年代の横浜中華街にある店で、衝撃的なものを見た。日本人の男子の身長程の鉄製の蛇の姿だった。錆色の存在が波打って天に向かい駆け上るような勢いがあった。ざわざわと胸が騒いだのを覚えている。人は蛇を見ると何故か恐怖に陥るそうだが、何故なのだろうか。鉄の頭は緑青が吹いて緑色の飛沫を上げ始めている。鉄板を波打つ姿に切り取って蛇の秘める力を奪い取った彫刻のようにも見える。否宗教的なものかもしれない。蛇を造った作者も波打つ身体に畏敬の念を抱いた筈だ。どこのアフリカの民族の誰が何の為に作った代物なのだろう。今ではあの衝撃が、この鉄製の蛇を見てもなくなったのだが、彼の呪力が落ちたのか、こちらの感受性が鈍ったのかのどちらかだろう。波打つ身体は水彩画で表現しようと筆をとると、その波打つ身体のエネルギーが手に伝わって来て心地よい。

小さな頃は巨大なアオダイショウの身体を見た。まじかで見ても怖くはなかったが、山道で足元にふっと顕われた蛇の姿には飛び上がる。この町に来ても畑や路上でアオダイショウの姿を数度見かけた。インド映画「大地の歌」で最後のシーンでインドの民家の縁の下に大蛇が消えていくシーンは印象深かった。あの波打つ身体のエネルギーが怖さの原点なのだろう。
蛇の尾の消える大地よ夏来たる

新緑へ何処よりきたりと問いし朝

1980 [アート]

1980年の11月、パリへ一週間程出張した。お土産に裏通りの雑貨店でバスケットに入って石畳の上の足下に置かれていた、木製の真っ赤な駒と、巴里の空気の缶詰を買った。並木のプラタナスの大きな葉っぱを拾い、壁に貼ってあった猫のポスターをこっそり剥がして、おみやげにした。最近何処の国でもポスターって見かけなくなりました。この当時は気がつかなかったが、それから十年後の1990年代のパリでは、petit graff(プチ グラフ)が路上で流行ったらしい。1993年発行のPARCO出版による、藤田一咲著「巴里の落書き」が書棚にあった。NYで地下鉄や高架下での落書きが有名になったが、パリでは少しかたちを変えて上陸したらしい。小さなステンシルによるモノクロームの落書きで、顔や人物像が多かったようだ。


ランボーはパリジャンにはいつも身近かな存在なんだろう。

さりげなく主張していますねー

プチグラフ(かわいい落書き)の存在、そういえば渋谷の高架下などでも見かけました。何か謎めいた存在も気になるところですが、今もあるところにはありそうですね。この本では等身大のマリア像なんて落書きも登場していました。
1960 [アート]

1960年自分が小学校六年生の頃、テストがあって藁半紙の解答用紙を回収し始める時刻の、5分前に男子の先生が言った「裏に落書きを描いた人は決して、消さないで提出して下さい」という言葉にはっとした記憶が残っている。男子の先生は美術の担任教師だった。当時落書きから何かを読み取る調査をしたいという意図があったのだろうが、何かいけないものを没収されてしまった感覚があった。何人の子供がその時解答用紙の裏や表に、落書きを描いていたのだろう。落書きとは、本音が描かれているイメージがある。解答用紙に描かれた事は、誰かが見るという事も知っている筈だ。それはメッセージなのだろうか。道路の橋桁に描かれたスプレー缶による落書きを見て思った。橋桁には落書き防止の為に絵が描かれる場所も多くなった。人気の無い場所では落書きも効果がないのだろうか。目立つ場所を狙い自己主張する落書き。記号やサインのような抽象的な落書きからは彼等が集まり、人目につかぬように描く光景が浮かぶ。咄嗟に描くという行為が記録され、何か汚いものではなく見えてくるのは、一時グラフィティアートなるものが流行ったせいなのか。自然、綺麗、汚い、の境とは何かふとおもう。

彼等は何度か練習して描き込んでいるのだろう。スピード感と完成度が見える。

手が動く様は、左官屋の動きの様にも見えて来る。決して落書きを礼賛しているのではないのだが、気持ち良さそうに描いているのか、想像される。
コンクリート打ちっぱなしの橋桁だから似合うのだろう。コンビニの硝子に描かれたらひどい奴らだと言う思いが湧くのだが。

落書きをする気持ちわかるけど、礼賛はしていない微妙なこちらの気持ち。
街角に素敵な落書き見つけたい気分、きっと1960年に、解答用紙の裏一面に落書きを描いたあの気持ちがあるからなのだろう。

橋の上に海が横たわり、一本の灯りの塔に落書きを見つけた。
落書きは役に立たないストレス解消物、灯りの塔の文字は決して落書きではないのだが、何故か落書きに見える。無くてもいいような文字だからか。
1995 [世界]

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや。」随の国に向けて書かれた有名な一節ですが、「恙なきや」の語源を、我が家は1995年の5月恐ろしい出来事で知ることになった。それは五月の連休も終わったある日曜日の事だった。

小学校5年生になった次男がアイロンがけをしていた母親の脇で、「寒いよう、寒いよう」といって半ズボン姿でうずくまりがたがた震えだした。おまけに雪が振り始めたと、ぶつぶついい始めた。母親は次男のおでこに手を当て、どうしたの「雪なんか降ってないのに」といいながら熱が物凄く出ている次男の気配に気づいた。正午を少し回った時間だったか、大急ぎで近くの市立病院に運び込んだ。熱は40度以上あり、うなされた状態が3日も続いた。

病名がはっきりしないまま一週間が過ぎた。熱は高熱のまま、脳や心臓を脅かし始めていた。病院の相談で感染症の疑いが濃いので、Y市の子供医療センターへ運ぶことになった。救急車で緊急配送されたのは一週間後の事だったろうか。子供医療センターの医師から、「感染症の疑いが濃いが何か感染源かはわからないと告げられ、病原菌の検査が始まった。医師からは次男達と現在すんでいる場所で、恙虫病の発生事例が数年前あった事を知らされた。幼稚園児の女の子が感染し、医師は近く迄現場の状況を見にでかけ薮が多い事を気にして帰って来たということだ。恙虫病、以前に聞いたことがあるがこんな湘南の地でも発生する事に驚いた。

正確には「新恙虫病」というそうなのである。風土病としてある地方の地域に発生し易かったが、最近では全国に発生事例が多いという。釣り人や農作業の人が、恙虫に挿され、リケッチアというウイルスよりは大きな病原菌で感染症を発生させるという。非常に危険な感染症との事だ。しかし次男からは恙虫病の感染証拠は検査で出てこない。

当時はパソコン通信を始めていた時期で、ネットで「つつがむしびょう」を片っ端から検索した。恙無きや、故郷の、つつがなきが、恙虫が語源であろうといった、事も書かれていた。中国の古典にも虫は登場するようだ。次男の熱は続き体力の限界と、心臓や脳への影響が最大限に達した。医師は抗生物質を試すという話をした。感染症の原因は不明なのだが、感染症の専門医の医師には、恙虫が感染原因だと確信していたらしい。通常は風邪薬にも含まれていたある抗生物質が、副作用の影響で禁止され、今の子供達には免疫が無いという。其の抗生物質を使用することになった。次男に投与されて翌日、熱は嘘のように下がっていった。検査結果が出て、恙虫病の感染によるものである事が判ったのは、退院まじかの日だった。次男は病院に一ヶ月近くもいることになってしまった。

この年、神戸で大きな地震に出張中に遭遇し、春にはオーム事件が発生していた。
パソコン通信の情報源では246号線から北側の地域で恙虫病発生中という記事もあった。まさかあのオームが感染症としての病原体を散撒いたとは思えないが嫌な記事だった。年間日本国内で新恙虫病に感染する人がいる事実も判った。湿地帯や薮の多い場所で、多くは鼠などに寄生する恙虫という、ダニの一種が人間に移り、脚の皮膚を這い上り太ももなどの柔らかい場所を刺し、ここから病原体が感染する事例が多いそうだ。

この年のゴールデンウイークは鎌倉、三浦半島の一部にバーベキュウででかけ、薮も小川にも入っていた。住む家の近くも薮が多い場所があった。
次男は窮地に一生を得た。感染症の医療センターに運ばれなかったら、恙虫の事例を知らない医師が多い最近では対処出来なかっただろうとも言われた。1995年の五月は我が家にとって次男にとっても忘れられない年となった。兄も18歳未満なので見舞いには、医療センターに入れないので、ペンキ職人の作業員に化けて病院に見舞いに侵入しようと言う話も起きた事を思い出す。結局硝子越しのペンキ職人の兄の面会成功したようにも思えるのだが記憶に無い。


2007 [世界]

2007年に放送された番組を、NHKオンデマンドで見た。五年前の放送がネットを通じ見る事が出来る。有料ではあるが、貴重な番組だった。題名は「沖縄 隠された武道」日本人の知らない日本へ とサブタイトルがあった。空手の源流である沖縄に、何故空手が生まれたのか。ベールに包まれた『手(てぃ)』と何なのか。C.W.ニコルさんが深い解説をしてくれます。相手を倒すのが目標ではない、「てぃ」は自分を守る事が最大の武道だという言葉に、沖縄の現在もダブりました。「てぃ」が琉球の舞踊にも影響を与えている姿に静かな感動を覚えました。

沖縄では身の回りのものが総て武器に也、人間の手は一番の武器でもあるのだそうです。ARMという腕を意味する人の身体もARMYという軍隊を意味する事にも納得です。

「手」は武器であり、手話ができ、モノを持ち、ぶら下がり、手を振り、人を抱くことが出来、多様な役割がありますね。

沈黙と無言の違いを考えました。沈黙には深い表現がありそうです。
無口は沈黙の大切さが判っている人の言葉の要な気がします。

たくましさは生活のあらゆる場面にひろがっているのでしょう

他人を支配したい人々と対照的な人々 他人を支配する事が正義だとする国や人々は、大国に成る程多くなるのですね。富める国程他を支配をしたがる。

唯まともに真っ当に生きるって 素晴らしい事ですよね

「勝たなくていい 然しけっして負けてはいけない」この言葉の意味、深いですよね。戦うことが目的ではないのですよね。

「てぃ」の核心、手から脳味噌で戦争をする人達への警告でもあると感じます。
空手が秘めた、その誕生の歴史と暮し、垣間見えた世界でした。
2100 [世界]

2100年は今から88年後の未来だ。その時迄この星はあるのか。
未来とは、いつの事を呼ぶのだろうか。明日2012年5月11日も未来であり、将来であり明日であるのだが。近未来という言葉もあった。未来とは何か?それは ふと 子供ではないかと思った。子供たちは未来を受け取る権利を持っている。子供達の顔には未来の姿が予感される。「未来」と題した切手を試作した。この切手は未来に使用することが出来る切手となることを祈って。未来行きの切手シート。
1970 [世界]

1970年日本で原子力発電が停まっていた時から、42年後の原子力発電が2012年5月5日、日本での原子力発電装置が総て停止状態になったという。昨日町の中にある「海の見えるホール」で、ドイツのドキュメンタリー映画「シェーナウの想い」という作品を見てきた。ドイツ南西部、人口2500人の小さなまち、シェーナウ市。チェルノブイリ原発事故後、子どもたちの未来を守るため、100パーセント自然エネルギーの電力会社をつくる軌跡を描いたドキュメンタリー映画でした。
http://www.youtube.com/watch?v=KD_2CAAA9gs
日本人の女性で、昨年の震災後ドイツへ子供達へのミルクの輸入をしようとドイツに出かけた方が、この映画にドイツで出会い、日本への紹介をしたいと日本語訳を担当されたのだと挨拶がありました。会場では5月5日全ての日本の原発が停まり、新たな時代へのスタートですねと、盛大な拍手がわき起こりました。
この映画から学んだ事。
1.チェルノブイリから離れたあるドイツの町で、放射能汚染とは何か、子供達を守る為にどんな情報が必要か。先ず真実を知るという事から、町に情報交換場所を設けた事。
2.電気をつくる仕組みを学び、町が契約するドイツの大企業である電力会社と交渉を開始した事。
3.二度にわたる町の総選挙で、自分たちの電力会社の設立と、町との契約を10年の歳月をかけて成し遂げた事。
4.今ではドイツ国内に13万軒もの家庭が、この町の電力を購入しているという話。
5.最後に母親達が子供達の未来の為に立ち下がり、住み良い町を作ろうではないかというメッセージがあった。この人々の目標とする電力会社のスローガンは、『世界から全ての原発を停止すること。早急な自然エネルギーへの転換。世界に平等に電気を使え世界の実現をめざす事。』この3つだそうです。
昨日フランスでも政権交代がありました。世界が大きく変わる中、何か新しく動き出している大きな力を感じました。長い戦いの始まりの最中に今いるのでしょう。
あたりまえに届く、電気や水道、ガス、電話回線、日常の暮らしの原点を見直す良い機会なのだと思います。1970年の出来事見ていて驚きました。大阪万国博がこの年開催され、其の電気が原子力だったそうで、電光掲示板に「美浜発電所からの原子力の灯が会場に届いた」と表示されたそうです。同年5月三島由紀夫自決。ジャニスジョプリン急死。ソニーがNew York上場。米ソ戦力核兵器制限交渉。中国発の人工衛星。アメリカ緑色革命。日航機よど号ハイジャック事件。大気汚染防止法アメリカ。何か凄い年だったんですね。自分は入社してまもなく、万博へ市場調査に出かけ、スイス館の光の樹が美しかったのを覚えています。未来がこんな世界を迎えているとは思ってもいませんでした。昨日のスカイツリーと河のLEDの螢たち、なんだかなーというように思えましたが。

映画会の開かれた「海の見えるホール」は東海道線大磯駅前に徒歩三分の場所にあります。駅前も静かですが、三分後にはこの静寂な森の中の世界が広がっています。明治の頃、岩崎弥之助氏がここに別荘を構えた時は、お客さんを山に開けたトンネルを通して、明るい海が開ける世界へ案内したそうです。其のトンネルの名は「陽和洞」今ではサンダースホームのある世界へのトンネルです。

ある日のサンダースホームの子供達

トンネルを抜け日当りの良い階段を昇って山の上に出ると、富士を見晴らす建物と、江ノ島を望む建物があったそうです。
下の画像は、明治時代の岩崎別荘で、西に富士山を展望する場所でした。

今では、其の場所も大きな樹が茂り富士は一望出来ません。

1950年代のサンダースホームを上空から捉えた写真

当時澤田美喜さんがアメリカへも世界へも向けて発信した、サンダースホームからのメッセージ。

記録は写真家影山光洋氏一家が貢献してホームの記録を担当されています。

現在の大磯駅前をサンダースホームの門の中から望む光景。

昭和の20年代か、サンダースホームの門から外を眺める子供達。
1945 [世界]

1945年を連想する一冊の本を読んでいる。画像は最近出かけた海辺の光景。家から500メーター程海岸沿いに西へ向かう先での風景。今時珍しくなった木製の電柱に「海辺」と文字がある。まさに海辺という地名がつけられた辺りなのであろう。わかりやすくて安心出来る文字。山辺とあれば面白いが、安心感は消え、不安が残る。海辺の電柱。何を支え、電線は何を運ぶのか。余計な事が気になった。

本の話に戻る。『日本人は何を捨てて来たのか』鶴見俊介・関川夏央 筑摩書房刊
2011.9.冒頭、近代日本が失ったものとして「リンクト・ヴァース(Linked verce)と言う言葉が気にかかる。これは近代欧羅巴にはなかったもの。リンクするものとは何なのかが、非常に気にかかる。リンクト・ヴァースとは、連歌、連句の事。日本での連歌の歴史は古い。それは大陸から来た、長歌を経て、短歌となり、連歌は、俳諧の連歌、つまり連句へつながり、発句のみの俳句という近代の世界へ連なる世界なのだろう。鶴見俊介氏はメキシコで連句を試み、大変好評だったという。シュルリアリズムが入っている国なので連句への抵抗感は無いという。話はブラジルの歳時記へ連なる。何か世界が不思議なキーワードで連なる快感がこの本にはある。

埴谷雄高氏の芭蕉も出て来る。当人の芭蕉が目指した世界は何だったのか。此処数年、俳句という世界に入るとき思っていた、古くさいもの大衆的なものという二つのイメージが、自分でも少し壊れて来た。それは発句という単独の世界でない、連句という繋がり、連歌という世界への連なりを気づかせてくれたからだ。其の関係の中には現在にも通じ、未来へもつながる、『連繋』という人間の関係の図式を見せてくれた事。単純にいえば「人間とは何か」「幸福とは何か」
連歌の世界を構成する人間世界が、日本的なるものを貫いていたし、これからも存在するというのがこの本から感じた世界だ。

この本では、鶴見俊介先生の「敗北力とは何か」が主題となっている。敗北力とは、『敵を研究して、敵を軽んじることなく、しかも勇敢であろうとすること、また攻勢終末点と「戦後」について早くから思いめぐらす事』この攻勢終末点を早くからおもい廻らす事が非常に大事な点だ。原発の終末点、核戦争への終末点とはどこなのだろうか。

画像は東海道大磯宿の京都側、道が直角に曲がる辺りの光景。この町に住んだこの国の初代総理大臣伊藤博文も散歩した道なのだ。本のエピソードで感銘した話がある。『1863年長州藩は、馬関戦争で列強四カ国に完璧な迄に敗北した。伊藤博文は焼かれた下関の町を歩きまわり、西洋料理の材料を集め、上陸して来たイギリスの使節をもてなす用意を自ら監督して成し遂げた。そんな人を最初の総理大臣にするのだから、当時の日本人は欧米諸国を超える目利きだった。』と外交官アーネスト・サトウは伊藤の、この『敗北力』に感服したと。日本最初の西洋料理のコックとしての伊藤博文と、日本最初の総理大臣の視点。深いものがありますねー。
今は専門家という、言葉の薄っぺらさが嫌になる時代ですが。政治の専門家でも、料理の専門家でも、横に深く繋がっているんですねー。ある時代が成熟すると専門家集団だらけになって、蛸壺化してしまう。現在も全体を俯瞰し感動出来る人間が必要なんでしょうね。


カメラの視線を地上20センチくらいに下げると世界が変わりました。普段見慣れていない光景は、いつもの町なのに新鮮です。ちいさな子供や犬の視線で町を歩くのも楽しそうです。

本は、『鶴見先生は「敗北力」の最後に、こう書かれた。今回の原子力事故に、日本人はどれほどの敗北力をもって対することが出来るか。これは、日本文明の蹉跌だけではなく、世界の文明の蹉跌につながるという想像力を、日本の知識人は持つ事ができるか』まことにしかり、『知識的大衆』は其の新価を世界史の最先端で問われている。と本は結んでいます。

1945年敗戦と呼んだ日本人はどれだけいたのでしょうか。終戦とは、それで総てが終わった事でもなかったのでしょうが。捨て去ったものはいやいやであったり、さっぱり出直すチャンスにもなったのでしょう。ふりかえっても1945年の今ではありません。2012年がどんな「敗北力」を必要としているのか。考えて見ようと思います。ドイツで電力会社を自分達の力で作った人々の、映画を今日は見に出かける予定です。ドキュメンタリー映画「シェーナウの想い」感想は次回へ

1890 [海]

滄浪閣(そうろうかく)は、1890年(明治23年)に、足柄下郡小田原町(現:神奈川県小田原市)に建てられた、政治家・伊藤博文の別邸。1897年(明治30年)に中郡大磯町に同名の邸宅を建てて移転し、本籍も同町に移したことから、本邸となった。写真のプレートは、大磯滄浪閣のもの。

滄浪閣は東海道松並木の樹齢300年を超える松の巨木が立ち並ぶ一画にあった。
現在は所有者がプリンスグループから購入後、開発は停止いている。
滄浪閣の名の由来は、楚辞の漁父第七「滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足」(滄浪の水清まば、もってわが纓を濯うべく、滄浪の水濁らば、もってわが足を濯うべし)とされる。「滄浪」は「あおあおとした波」又は「漢水」の意味で、滄浪の水の流れが綺麗なときは冠の紐を洗い、濁っているときは足を洗う、という意味から、何事も自然の成り行きにまかせて身を処する意味を表している。作者の屈原は、横山大観作の『屈原』1898年 厳島神社蔵を思い起こさせてくれる。端午の節句とは、紀元前3世紀の中国、楚で始まったとされる。楚の国王の側近であった屈原は人望を集めた政治家であったが失脚し失意のうちに汨羅江に身を投げることとなる、それを知った楚の国民たちはちまきを川に投げ込み魚達が屈原の遺体を食べるのを制したのが始まりと言われている。以上ウイキペディアより
松並木の大磯中学前歩道橋の上からは富士が頭を出している

下の画像は大磯滄浪閣から

大磯滄浪閣は1921年(大正10年)に伊藤博文の養子の伊藤博邦により朝鮮の李王家に譲渡されて別邸となった。伊藤博文は10歳の李朝最後の皇太子李垠殿下を日本に留学生として迎えている。この十歳の皇太子が後に、滄浪閣を譲渡され、町では李垠さんと親しまれたお方だと言う。その東隣に鍋島藩の鍋島直大の別荘があった。直大の娘、伊都子は梨本宮家に嫁いだ。その梨本宮家の大磯の別荘が西に1キロ程離れた吉田茂邸の近くにあった。梨本宮家の別荘のある年に、伊都子妃と宮の間に生まれた、方子(まさこ)様と、李垠殿下の婚約のお話をこの別荘で、方子様は知ることになったという。不思議な奇縁がこの町で進行した。写真は日本へ留学間もない李垠殿下、隣りは御教育係となった伊藤博文。

小田原の滄浪閣跡に出かけた時のこと、伊藤博文公の銅像の前に建つ一本の石柱が目に入った。

王世子李玖殿下と刻まれている。
1931年生まれの李玖殿下とは、李垠殿下の御子息になる方だ。小田原の滄浪閣跡にいつ立寄られたのであろう。石柱には年月も刻まれていたのであろうが確認は忘れた。アメリカに渡り、数年前赤坂プリンスホテル別館の李垠邸で亡くなられていたというニュースを聞いたのは数年目前のことだ。滄浪閣の名の由来の、日本と中国の関係、端午の節句の由来、日韓関係の現在、断ち切れない歴史の糸の数々が見えててくるような想いがする。
明治18年この町に日本で最も早い近代的な海水浴場が開設された。伊藤博文も李垠さんも泳いだのかもしれない海に今日でかけたら何処迄も緑の海が輝いていた。
其の光景は、滄浪の水の色でもあるように感じた。照が崎海水浴場があった其の岩場にはアオバトがやってくるが、連休中の人出でアオバトは見られなかった。



大磯照が崎海岸より小田原箱根方面を望む

大磯海水浴場の昔の絵葉書から
初期の海水浴では泳ぐことはしないで海に打ち込んだ杭に掴まり
潮にもまれる事が作法だったという。

町の釣り船店の店頭にあった写真、沖合どのくらい迄いけばこんな大物の釣果があがるのだろうか。

1981 [かたち]

1981年長男の為に金太郎の凧絵を描いた。神田松吉日本画画材店で染料を買って描いたので、発色が物凄く美しかったのを覚えている。染料の色彩は透明感があり微粒子で今のモニター画面で見る光の三原色に近い印象がある。和紙を透けて見る凧絵や、青森のネブタの光を通した色彩に近いのかも知れない。棟方志功の裏彩色は、ネブタの世界から発想しているのだろうとふと思った。

和紙の鯉のぼりも手描きで描いたのと、買って来たものを飾った記憶がある。
30年以上前の端午の節句の光景だ。

手元に江戸の菖蒲売りの本があった。美しい線描の世界から、菖蒲の香りもやってくるような世界だ。軒に挿した菖蒲が五月の風に微かにゆらぐ。草葺きの屋根には菖蒲や杜若が咲く光景も昔はあったことを思い出す。


いつかの空、鎌倉由比ケ浜の空。源実朝が潮湯治をしたというが海水を組上げた湯殿に浸かったのか、海に直接入ったのかどちらなのだろう。
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