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1960 [山]

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1960年昭和35年私は家の目の前にあった中学校に通うことになった。横須賀市でも文教地区であった場所で、私立幼稚園が一つ、小学校が二つ、中学校が三つも同じ場所にある今おもえば凄い場所だった。この地域は陸軍歩兵連隊の駐屯地で、赤煉瓦の門と塀が当時は残っていた。中学のクラスは12組まであり、生徒は一クラス40名を超えていた。一学年で500名近く、三学年では軽く1500名は超えていたと思う。日本全校でも一位を争う生徒数だったと思う。
学校は陸軍歩兵連隊の使っていた木造の建物を使用していた。
廊下も床も壁も木の板の破損した上には又板を重ね補修した襤褸校舎だった。ダルマストーブに石炭小屋、室温が11度以下になるとストーブの使用が許された。
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この年辺りに周辺の団地造りが始まった。隣町に抜けるには山を越えていかないといけない地域が、大きな切通しとトンネルで開かれていった。巨大なブルドーザーが何台も仕事をしはじめた。壮観な光景だった。其の名は鶴ガ丘団地。数年後この団地から山口百恵さんが中学へ通いはじめた。
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我が家では間貸しと言う事を、自分が小さな頃からやっていた。六畳一間に此の頃、ブルドーザーの運転手が4人程我が家にやってきた。間借り人にはまかない飯も出していたのだろうか。血気盛んな二十代前半の独身者たちだった。高度成長が始まり、日本の国土もブルドーザーによって各地が切り開かれていった事を思い出します。
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あの切通しの彼方の光景は今はないのだが不思議に魅力的な光景でした。
ザリガニを釣りに行った池、遠い石切り場、葡萄棚のある地域。なにもかもが50年という
時間の彼方に、、、でも今の自分に見える光景は2012年の光景。

2005 [本]

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「あんた、絵本作家になんなよ!」と十年程前恩師の先生に言われた事がある。其の気になって2005年、絵本の試作まがいの事を創った。先生の家に飼われていた大きなラブラドールの老犬をデジカメで撮って加工した。登場したのは其の頃廻りにいたメダカ、蛙、ヤモリや、蝶や昆虫たち。結局絵本作家にはならなかったが懐かしいあの頃だ。思い切り横長の画面の絵本に込めようとしたものは何だったのか。恩師は教師を長くしていたが40代後半から本格的に油絵を描きはじめた。若い頃に駆け落ちをして野草を摘みながら山の中で彼と暮らしたという様な話を二十代の私は感動した。彼は使用人が大勢いる良家のボンだったというのだが、まわりの人々の計らいで別れさせられたと言う。純愛が似合う時代もあったのだろう。其の先生は今東光に気学を学び、我が家の家族の性格もぴたりと当てられた。気学は中国四千年のデータベースに基づいていると言われたのだが、確かに的を射ていた。
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絵本は子供へも大人へも嘘をついてはいけない分野なのだろうか
優しさの中に厳しさ残酷さも共存する世界なのだろう
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確か絵本の素材は2000年頃撮影した記憶があるのですが、微妙です。

1949 [樹]

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私が生まれた横須賀の家には一本の大きな椿の樹があった。正確には根元が2本か3本の幹があり寄せ植えされている様な趣にも見えた。花は赤と白と絞りの花の3種類が咲いた。幹の途中で接ぎ木をしたようで、樹形の中では入り乱れて咲いているように見えた。赤は山椿系の一重で朱色がかった濃い赤の年もあれば、濃い紅色に感じる年もあった。毎年咲く色が違って見えるのは気候条件や、接ぎ木による為などから色素に変化が生じる為だったのだろうか。赤と白の絞りはそのバランスが様々で好きだった。白い花は毎年咲く数を少なくしていった。樹齢80年程はありそうな太さだった。祖父が植木が好きであちこちから持って来た樹木を植ている家だった。崖の斜面には大きな夏みかんの木が4本程点在していた。根元が大きな棘のある枝で、カラタチの木に夏みかんを接ぎ木したものだと後から知った。十センチ程の鋭い棘のシルエットが美しかったのを覚えている。台風が来ると落下して下のうちのトタン屋根を直撃し大きな音を立て迷惑を掛けた。
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私が生まれた家は60段以上の石段を昇った南斜面にあった。夏みかんの樹はあちこちの家で見かけ横須賀らしい光景を感じさせていた。石段をのぼり上にも何軒かの家があった。
小さな門に格子戸がつき夜にはこの門に裸電球の街灯が灯った。南に廻ると玄関があり違い戸の硝子の沢山入った建具が入っていた。其の隣りに廊下が続き東側にトイレがあった。男子用の朝顔と、金隠しの入ったものの二部屋に仕切られていた。外には南天と八つ手の木に手水鉢が収まっていた。廊下の奥は六畳間で東側に床の間、廊下側に「清風千里夢」と書かれた額が長押にかかり、北側が四畳半だった。玄関をあがっても四畳半で正面に神棚があった。其の奥が台所で、三畳と板の間一間、ちゃぶ台が置かれていて西向きに仏壇があった。板の間の下は漬け物や、諸道具収納があり、東側の土間に続いた。土間には半分だけ井戸が土間側にありブリキの蓋がされていて、北側の外から井戸水を組上げた。最初は土間側にポンプがついていたのかも知れない。井戸の東は流し台になり、其の又東側が風呂場になっていた。風呂は木製で小判形のもので焚き口の上に上がり湯があった。薪は最初は周辺から調達したようだが、ある時から石炭になり、湯の具合がひりひりと感じ嫌だった。風呂の煙突も古くなると火の粉が家に落ちたり山に飛び火事になら内容に見張りに出る様な時もあった。
土間には南側にへっついと呼ばれる釜戸がありこれも薪で使用した。窓は無双窓と呼ばれる木の板をスライドすると光と風の量が調整出来る方式だった。手前の部屋は炭小屋で練炭火鉢や餅つきの臼や杵が収納され、ある時から石炭小屋に変わった。こんな家で1948年の冬私は生まれた。お産婆さんが家に着く前自力で誕生してしまったとは後から親に聞いた話である。この家で兄の祝言も行われたという事も思い出します。今は大きなマンションが建ち跡形もなくなった光景です。
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東側の突き当りに大きな棕櫚の木があったのを思いだしました。葉を伐ると上へ上に延び仕舞いには葉に届かなくなってしまった木です。
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1966 [色]

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1966年故郷の横須賀にあった米海軍EMクラブの窓の写真です。今は建て替えられて市の文化施設になっています。この窓を有名にしたのは写真家石内都さんの作品にある、同じ窓を内側から撮ったものではないでしょうか。1966年当時のクラブ周辺は横須賀らしさが濃厚でした。リベットの打たれた非常階段のある将校倶楽部(EMクラブ)の道路からはマンホールを通してスチームの白い蒸気が上がり、まるで行った事の無いニューヨークの光景のように思えました。6歳くらいの私がこのクラブの前辺りで、花見見物に向う途中米軍のかっこいい身なりの将校に会いました。彼は黒いグローブをはめた手にチョコレートを持って私に差し出しました。まわりの大人たちは「貰いなよ!」と言っているのですが、何故か屈辱的な事に覚えて手が出ませんでした。ただ怖かっただけなのかもしれませんが。画像は近年倒産したコダック社の紙のマウントに入ったKodachromeで撮られたものです。カメラはオリンパスペンF。あのハーフサイズの一眼レフという名機でした。フィルムが高く大事に撮っていた時代を思いだします。

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1952 [かたち]

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1952年昭和27年頃の記憶だろうか
様々な緑が太い縞となって、目の前を流れていく光景が浮かんできます。
軽快な速さで流れる緑は 走る自転車から見える光景なのだと今も思っています。
林か山間を走る自転車は 父が漕ぎ前面の荷台にちょこんと私が乗っていたのでしょう
稲の緑が風にそよぎ、初夏を感じる春の光景のように思えて来ます。
鳥のさえずりや、樹々の香りや、水の流れの音や、きらめく光や、
たくさんの微かな音や、流れ込む香りの渦が、
目の前を流れていきます。



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4歳頃の記憶の断片なのです。場所は特定出来ませんが、多分、横浜か、横須賀の田圃がある山間の道。何故か自分が自転車に乗っている光景が浮かぶという事は、もうひとりの自分がこの光景を見ていることになります。記憶というものは不思議なものです。確かに見た一瞬の時間と、他の時間がモンタージュされて繋がったり重なったりして来る気がします。2012年のこの今と言う時に記憶が更新され、新しいものが付け加えられたり、引かれたりしている気になってくるのです。1952年の画像は何処にしまわれていたものなのでしょうか。その時の事を思い出して描くと言う事は、どんな繋がりをもっているのでしょうか。こんな考えを一年後の自分が見たら、どう感じるのか。ふと不思議に思います。カメラは引いて1952年の私から遠ざかっていきます。カメラを撮っている人は誰。其の画像を見ている人は誰。危険な連鎖です。2012年1月17日午前8時30分の呟きです。
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1941 [人]

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1941年1月14日の大磯で行われた左義長を、島崎藤村は毛布をかぶって見物したと言う。昭和16年の此の日、弟子筋にあたる天明愛吉と、芸術新潮の初代編集長であった菊池重三郎等が案内して、東海道(国道一号線)に現在もある旅館大内館に案内し、そこから港を見下ろす堤防の上に出たと言う。この堤防から海岸の左義長を見下ろす構図で書かれた水彩画が、藤村の姪の孫にあたる島崎古巡氏が2011年発行した、「藤村の旅路」という画文集のなかに出て来る。藤村の雑記帳には、『一月十四日煙七ヶ處より 天を焦がす勢也、紙の飾りある竹の燃え落ちる音、ツナにて引き仆す、正月の飾り、ダルマなど皆投げ込む、清書上につなぎあり、米の粉まるめた團子を竿の先につけ焼く』とある。
この記述で注目なのは、現在9カ所のサイトが出来ているが、昭和16年当時は七箇所の下町のみでのサイトが作られていた事だ。戦時中は中止の年もあったようで。この町の左義長にも様々な変遷があったのだろう。他にツナにて引き仆すとあるのは、其の年の恵方方向に綱が張られ、恵方に向って倒す所作の事なのだろうか。
藤村の故郷でも道祖神祭りの団子焼きは行われていただろうし、都内に住む藤村にとって、疎開先には古い行事が大切に残されている、大磯という町に住もうというきっかけを作ったのがこの左義長見物だったと言う。
古巡氏の藤村の言葉で『突き詰めた文学的な探求という気持ちから離れて、六十を過ぎてからは、浅く浅くと考えるようになった。』藤村が含みのある言葉としてつかった『浅く』という言葉が気になる。下は「藤村の旅路」表紙から
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この町で天明愛吉と菊池重三郎の出会いエピソードも不思議なものを感じた。旧東海道山王町の松並木の一画に佐野経師店という店があった。其の店先にさりげなく飾られた軸を、通りかかった愛吉が見つけて、経師屋に軸の持ち主を聞いたら、所有者が菊地重三郎である事を教えられ、早速菊池家を尋ね交流が始まったと言う。経師屋に預けられ修復をして店先にしばし飾られた軸のある街と言う風情も何か時代を感じる。当時は世相も荒み何か息苦しい時代だったのだろう。今から70年前の太平洋戦争に入る直前の時代に、藤村たちが大磯で見た左義長はどんな光景だったのかと思えて来る。
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一向一揆の様な民衆が時代を駆け抜けたええじゃないかの世界の様な光景が炎と重なった。
当時は下町の漁師の男にも逞しく生きている時代のうねりが感じられたのだろうか。
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2012年左義長の日の朝、大磯港で見た光景に感慨深いものがあった。停泊する漁船と左義長のオンベタケと呼ばれるサイトを重ねて撮っていた時に、ある事に気づいた。木造の舟の時代の舟板がFRPの船体に見事に嵌め込まれている。舟板はどう見ても7-80年は経過した板のようだ。藤村が左義長を見た時代の、舟板が此処にあるのかも知れない。船大工が三軒もあったという八代目の漁師だったと言う方から聞いた言葉を思いだした。漁師町という下町の誇りと其の結束(絆)が、左義長という祭りを続けている根源ではないのかと感じた。その証拠が舟板に刻み込まれているのだろう。今まで見えていなかったものに出会えて感謝したいと思った。
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舟の素材はFRPと変わっても舟板に刻まれた文字とその窶れかげんが、何か大切なものを教えてくれた。

1716 [人]

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1716年は江戸享保元年である。享保の時代多くの道祖神がこの地方には作られたと云う。何故なのだろうか。芭蕉の奥の細道にも道祖神の誘いによりて旅へ、というような一節がある。全国で団子焼き、左義長とかの名で一月十四日から十五日に掛けて正月開けの行事がある。旧暦では今年は一月十四日は二月の五日にあたる。月齢では十日余の月とあり、二月の満月の日は八日になる。今日新暦の一月十四日は更待月(ふけまちづき)とあり、月の出は遅いのだろう。
この満月に拘ったのは、満月の晩に綱引きが行われる地域が全国に分布するからだ。韓国でも古くは行われていてこちらのが原典やも知れない。満月の力と光で祭りも盛り上がるイメージが濃厚だ。今夜は星が多く出ていた。昼間であった方から、星と左義長の火の組み合わせを狙っておられると聞いた。手持ち撮影で十秒以上のシャッターでは到底無理な世界だったが星の軌跡は映っていたようだ。以下ぶれぶれ画像が続きます。
IMG_7948.jpgスクリーンショット(2012-01-14 22.08.jpgスクリーンショット(2012-01-14 22.09.jpg
最後の画像は団子焼きの竿を持って家路につく人々。
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2012 [祭]

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2012年の湘南大磯の左義長のドンド焼サイトが勢揃いした。風になびく吹き流しは今年を元気にしてくれそうだ。点火は1月14日午後七時に九つのサイトに一斉に火が放たれる。詳しくは
http://27.pro.tok2.com/~oisokankou/12sagi-osirase.htm
スクリーンショット(2012-01-14 14.20.jpgスクリーンショット(2012-01-14 14.24.jpgスクリーンショット(2012-01-14 14.27.jpgスクリーンショット(2012-01-14 14.29.jpgスクリーンショット(2012-01-14 14.35.jpg

1950 [かたち]

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1950年代の前半、自分が初めて見ていた光景の記憶を描いてみた。自分が生まれた横須賀の家の或る晩の光景だ。何故かその日父に玩具を買ってもらった記憶がある。敷居を挟んで三つの部屋の襖は開けられていて六畳間の床の間のある部屋の灯りが一灯畳みを丸く照らしていた。琺瑯の上が緑で電球側が白い傘ではなく、竹や梅柄の透かしのある深めの傘だった様な気もしてくる灯りが兎に角一灯照らしていた。夏の最中だったのかふすまが開いている記憶だから。伝統に照らされて、丸い木の球が半円の針金を動く玩具が畳の上で球を光らせていた記憶がある。片側には積み木の様な立体があり、数を数え始める子供の為の玩具の様だった気がする。
天井は暗く何故か電気の下以外は闇が濃厚だった時代が思いだされる。午後八時くらいだろうか父親の足先が光の環に入って来た様な気配を今も思いだす。座っている影は祖母のものだろうか。何人かが自分のまわりで声を掛けていたのだが其の言葉は今も判らない。今から60年以上前の記憶の世界だ。
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小さな頃何度か見た夢の中の世界だ。中央に池があり其の池のまわりを廻る道路があり小高い坂の上に道路は繋がっている。道路を坂に沿って昇り又坂を下り降りて来る。緑が茂りかなり舗装された道路は坂の上で公園か、大きな建物の入口となっているように思えた。坂の途中の家は何か用事があり道路に面した玄関を開けて、家の人と挨拶をした。この夢は何度か見てお馴染みになっていたのだが、ドコノ光景なのか未だに判らない。何カ所か候補の場所があがるのだが現地に行って確かめてはいない。こんな光景が誰にでもあるのだろう。
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横須賀の家は山の上にあった。軍港の町なので入り組んだ湾と高台の家が多いのが此の町の今でもの特色だ。生まれた家はバスが通る舗装されていない道路から六十数段の石段があった。途中踊り場が3カ所あり、ここで一息ついた。石段はまだ上の家まであり百段以上が高い家に続いていた。バスの通る路でも砂利道で舗装されていないので大きな水溜まりが出来た。深い水溜まりを自動車が通ると水を跳ね、傘で跳ね上がる水をよけた。此の道を寒の頃は「寒詣り」の白い装束をつけた一行が通った。リヤカーで魚屋が販売にも来た。大きな荷台のトラックは真っ赤な林檎を山にして路に横付けして販売した。晴れ上がると砂埃が舞い、どぶには大きなアメリカザリガニが鋏を見せて子供達に釣られた。石段は雪が降ると下まで転げ落ちる程の恐怖を覚え脚がすくんだ。この一帯は不動産屋に地上げされ大きなマンションに変わっている。山の上に昇ると観音崎の防衛大学校がよく見えた。現在のマンションの最上階からも白く輝く防衛大学は見えるのだろう。わが実家関東大地震の直前に建てられ柱が曲がり建具に隙間が出来たが70数年立派に建っていた。石垣にはアオダイショウの住処が沢山あり夏の草刈りは怖い思いをした。1950年あなたは何処にいましたか?

1948 [写真]

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昨年の暮、古い写真を見ていて写真の下に1948と鉛筆の様なもので書かれているのに気づいた。何故1948と書かれているのかが気になっていた。1948年は私の生まれた歳だ。この写真に写るのは父方の祖母と曾祖母のようだ。1948と写真に書き込んだのは誰なのか。私の父の遺品の中にあったアルバムからの写真なので、父が書いたものかもしれない。1948年にこの写真が撮られたのであれば祖母がK家に嫁いだのが明治37年(1904)なので昭和23年(1948)には、60歳くらいだろうか。嫁ぎ先のK家は横浜市鶴見区の江ヶ崎村にあった。
同じく父のアルバムにあった祖母の写真。
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祖母が嫁いだ家は大家族だったようだ。
私の父は若くしてなくなり記憶が薄い。
二十歳の時の父の写真があった。明治42年4月27日生まれとあるから、撮影は昭和4年(1929)の事のようだ。裏書きに體重拾七貫餘とある。明治の人だ。
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明治14年発行のフランス地図に江ヶ崎村があった。(画面左上)
昭和30年代の地図には鶴見の操車場が大きくあり、左手に江が崎町がある。
江が崎の北方には、夢見が崎という地名もあり、何故か郷愁をそそられる地名だ。
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