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06月02日 [人]

昨夜の夢は嫌だった。
玉子に着色をするので、その色見本を探し出す仕事だ。何のために着色するのかは、色付き玉子を販売するからなのだろう。足元にうまい具合に黄葉して美しい枯葉があった。それも色見本になると葉を集めた。紙の色見本から選ぼうとするが、風が吹き始め飛んでいってしまう。おまけに色見本を貼る白い台紙が見当たらない。小さな役に立たない台紙ばかりだ。引き出しを開けると中味が溢れるほど飛び出し悲惨だが、台紙は見当たらない。
何色卵のための色数を用意するのか、気になる。一色だけでは足りないだろうし、五色なら何故五色なのかと悩む。

卵の殻を染める色見本の夢、現実とも繋がっていた。昼間冷凍庫の引出しにぎっしり詰まった冷凍食品を見て無理矢理押し込んだ。紙を探して彼方此方の引出しを開け満杯であるが、見つからなかった。
夢の中でも引出しの続きを探す作業をしていた。昔は素敵な夢を見て、夢の中でも大事な夢だから続きを楽しみにと眼が覚めたのだが。

色見本の色の選出に、どこまで必然性や、論理性があるのか、夢から覚めても悩んでいる。
嫌なゆめだった。夢は夢の世界でありたい。

横尾忠則さんの全版画集を観た。何か深層心理に呼びかけてくる好きな画集だ。
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懐かしい風景のように

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ストリートファッション写真集を観る。今は本からインスタグラムの世界になっているのだが。
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コンゴの男性の迫力ある着こなし。英国のエレガントを黒人のアングロマインドで見事に消化。
暑い季節になると原色の着こなしが、元気を出してくれますね。

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最近Jアラートが気になり、スマホをチェックした。彼の国のミサイルは沖縄あたりには十数分で到達するのだと知った。日本海上の落下地点の延長線上には、日本の核貯蔵施設や米軍基地が存在している。
アラートが鳴ったら、窓際から離れ室内の奥に移動し、スマホのアプリで風の流れをすぐチェックしろという。ミサイルに何が積まれているかはわからない。


こんなことを現実とする世界のストレスは嫌だ。「たとえ世界が滅びようとも貴方はリンゴの木を植えますか」

01月02日 [人]

箱根駅伝往路の選手たちを見に行った。多くの応援の人々、駅伝を見守る関係者、テレビ中継車の人々。
応援の町の人の中に、あのノーベル賞を受賞された方の笑顔も見えた。東京から箱根まで多くの人の目が追っている一日。

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選手の背中は何故か美しい

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歓声の中へ走りこむ

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最終列にはおなじみバイク集団が走り去る


11月04日 [人]

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ピカピカに磨いた振り子時計のゼンマイを巻く螺子。
数年前にご近所の今年99歳になられる老人から戴いた柱時計。
振り子のガラスの円盤は大きな割れが入っているが時刻の変化に影響はない。十年以上前にお知り合いになり、いろいろな話をお聞きしてきた。

時計の振り子の動きを見るたびに、この十年が蘇る。
昭和十四年のノモンハン事変に、大正六年十二月二十三日生まれのその方は、22歳で参戦している。昭和八年第125代明仁天皇の誕生日と同日である。この日、十二月二十三日に東京裁判での処刑者がでたことも最近知った。

ノモンハンに戻ろう、陸軍航空部隊に所属したという22歳の青年は、日本から満州の牡丹江という町の、海浪飛行場に着いたという。日本からの経路はお聞きしていないが、着いて三日間は自由行動だったという。土地の空気に慣れさせるための自由行動だったとその方は語る。陸軍病院の視察がすぐに行われたという。その時はまだ20歳になられていない頃のことだったかもしれない。病院で負傷兵たちの姿を見せ戦場の怖さをまず身体で体験させたと話される。軍事教練や訓練を重ね、戦隊の中でも首席になる位置につかれたという。爆撃機の機関士として乗り組み、ノモンハン上空で敵機に、撃墜され聴覚を左右奪われたという。以来80年余、色々な体験をされてきた。彼が昭和20年代の後半に、澤田美喜さんという女性に会う運命の話は、また続きを書くことにします。

100歳に近い今、その方はアメリカに渡り、オバマ大統領に逢いたいと言われている。何を話すために渡米されたいのか、お聴きしておかねばと今思う。

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その方は、同じ20代で台湾の高雄からフィリピンへ向けて、マッカーサーを南に後退させた作戦に爆撃機で参加されたという。

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図書館へ「静かなるノモンハン」という本をリクエストした。
大きな時代の転換点を探るために。

10月27日 [人]

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GHQと戦った女 沢田美喜 新潮社刊を数ヶ月前に読んだ。
エリザベスサンダースホームを1948年2月に設立した沢田美喜子
さんには、三人の男子のお子さんがいた。
その実子の方が、「実子は孤児に、孤児は実子になった」と話されたという。
500数名の混血児と総勢2000名を超える孤児たちを育て、今もサンダースホームは様々な理由で通学し、ホームにいる子供達の教育が行われている。
1980年スペインマヨルカ島で、美喜さんが亡くなっ時、葬儀の際、実子のひとりが「お前たちがママを殺した!」と美喜さんが一番可愛がった孤児のひとりを指差して言ったという。
私は以前その孤児にあったことが何回かある。孤児は今では70歳に近い老人である。

その彼が「世界が混血児だけの世の中になれば、平和は続く」と言った。
しかしホームの子供達は、アメリカの養子縁組希望の際、白人の子は白人の里親に、黒人の子は黒人の里親にもらわれて行ったという。肌の色の違いは大きな壁なのか。

最近ショックを受けたのは、沖縄の現在に700名を超える米軍兵士と日本人の混血児がいて、沖縄では学校にも入れず差別されているという。本当の実態はわからない。

ベトナム戦争でも兵士たちと現地の人の混血児が多く生まれた。湾岸戦争でも、イラク他でも多くの混血児が生まれ、その国で二重の差別を受けているのだろう。

澤田美喜さんが、母親として次男の出征の時に言った言葉が強烈だ。
「出来うる限り 人を殺さないで帰って来るように」と

そしてGHQには、戦争はもうまっぴらです。戦争の後始末も出来ないような人々は二度と戦争を行う資格はない」

冒頭の孤児と実子のお二人は、澤田美喜さんの元へと旅立っています。
美喜さんの実子たちは、彼女が外交官夫人の時代英国の婦人が成人まで母親がわりに育てられたということです。

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10月22日 [人]

GAPのショップの広告写真を見ながら考えた。
街は刺激に溢れている、人々は大概一台のスマホを持って歩いている。
そのスマホで何か刺激と思う光景を撮れば、必ず人の顔が写るだろう。
五千画素を超えるカメラも出ていて、拡大すれば遠くの人物も、はっきり識別できるだろう。
先日の五輪選手の銀座パレードでも、大勢の観客がスマホを構えていた。

肖像権は今後どんな展開と解釈になっていくのだろう。顔の一部の唇だけのアップでも、誰かと特定できたら肖像権の侵害になるのだろうか。
印刷物のコピーでも、肖像権は発生するのか。
自撮りの向こうに偶然入った顔も対象になるのか気になった。

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似た顔に唇さむし秋の街 むおん

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おちおちとシャッター切れぬ国の秋 無音

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10月02日 [人]

国会の首相の所信演説に、自民党議員が一斉に起立して、まるで何処かの共産圏の国の独裁国家の様な光景だという記事があった。

なぜ議員たちは起立したのか。予め示し合わせて起立したのだろう。なぜ起立しなければならなかったのか。

倉本聡さんが、昭和19年国民学校の4年生だった時の光景を書いている。
その頃始まった学校配属将校制度にのっとって一人の将校が突然僕らの前に現れた。彼は僕らを横列に並ばせ、開口一番いきなりぶちかました。
「特攻を志願する者、一歩前へ!」
僕らは全員凍りついた。特攻を志願するとは、国のために死ぬということである。命を絶つということである。
それが仮想の世界ではなく目の前の軍人の口から発せられたのだから、それは現実として受け止め、死ねるかという設問に必死に思いを巡らしたのである。
勇ましいのがいきなり一人の前へ歩を踏み出し、つられた様に2、3人が出た。一寸間があって、はじかれたように大きな集団がどっと前に出た。僕はその時まだ出られなかった。隣をちらとみると親しい旧友が蒼白になって半分震えていた。そいつと目があった。同時に二人ともバット前に出た。最後まで出なかった者が2、3名いた。
配属将校が、「戻れ」といい、一同の緊張がふっと解けた時に、誰かが「卑怯者」と最後まで出なかった旧友に向かい小さく囁いた。
その言葉が倉本さんの耳に今でも残っているという。

最後の二人は、本当の卑怯者だったのか。出なかったら後で周りに何か言われることが怖かった卑怯者は自分なのではないか。
周囲におもねって迎合してしてしまう卑怯者、真実を語るより会社の利益、自分の立場を守ってしまう現代の卑怯者。
組織にしがみついて、事実の隠蔽、虚偽の発表、などなど企業や巨大な組織、党派の中にあって、周囲を裏切りはみ出すことは、真実を貫くより強いことなのか。人の本質は全くあの時からも進歩していない。

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みんなでいれば怖くない、自分を出せばお終いだ。そんな国会のの光景とも重なって見えてくる世界。片寄ってはいけない。そんな思いと怒りが湧いてきました。

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9月20日 [人]

太平洋戦争中、アメリカ全土にいた凡そ12万人の日系人が、老若男女を問わず、アメリカ内陸部の強制収容所に移動させられたそうです。その時の日系人退去命令書。1942年5月の日付が見えます。
ビルや電信柱に貼られた命令書には、一週間で身の回りを整理して出頭、荷物は手に持てるだけと。
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まるで福島原発の退避状況と類似していることに驚きました。チェルノブイリでは強制的に村からバスに乗せられ退去させられた老女が、バスケットに飼い猫を入れてのみ故郷を離れた話など連想しました。いつ終わるのかわからない収容所への道です。

幼い退去者とキャプションの写真
年齢や市民権の有無に関係なく、日本人の血を引くものすべてが退去の対象。家族の荷物と一緒に集合センターへ送られるのを待つ少女。1942年春
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アメリカ国内に居住する現在のイスラムの人々の現状を思います。イエローモンキー、ジャップと差別されるカラードと呼ばれる差別の現実を思います。

収容された人々の3分の2はアメリカ生まれで、アメリカ国籍を持ち、大半は日本語の読み書きができず、日本に行ったこともありません。収容された半数の人達は17歳より若い人たちだったと言います。
第二次世界対戦以前も大戦中も、日系人による破壊活動や転覆工作といった、敵国を助けるような裏切り行為はありませんでした。然しそうした事がおこる可能性を封じる事が、収容所の口実となったそうです。西海岸に集中した日本人や中国人の経済進出が脅威と考えられ、1913年には、外国土地法、1924年には、排日移民法で、日本からの移民が禁止されていたそうです。

第442連隊戦闘団
1943年日本人二世だけで構成する戦闘部隊が、33000人のアメリカ陸軍が誕生し、多くが収容所からも志願したそうです。この部隊は最も多くの勲章を授与され、戦死者や死傷者は多く、勇猛果敢さは、アメリカの忠誠への証として世界で恐れられたそうです。442部隊の兵士の家族。
日本の当時の首相東条英機は、二世たちにアメリカ国民であることは、アメリカに忠誠を尽くせと。手紙を送ったそうです。何か手紙の重さを感じますね。何故祖国は戦っているアメリカに忠誠を尽くすか、日本に帰るかと言えなかったのでしょうね。

日本が台湾の少数民族の部隊を編成して、アジアの戦場で勇猛果敢な成果を挙げた事例を思い出しました。
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1941年12月7日真珠湾攻撃から48時間以内にFBIは、確たる捜査なしに約3000人の一世を「敵性外国人」として逮捕したそうです。あらかじめ戦争が始まることをFBIは、知っていたのでしょう。

収容所の人々が、その生き様を遺したお話、明日に続きます。
「尊厳の芸術」強制収容所で紡がれた日本人の心 以上から引用


9月11日 [人]

コンシェルジュを再度ネットで調べていたら、フランスのアパルトマンの鍵を預かる人という解説がありました。鍵を持つからには、その邸内の主人以外の持つ権威も預けられてる人とありました。
鍵を預けるには相当な信用が必要になりますね。
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遠い昔、パリの伝統的なクラシックホテルに、一週間程泊まった時の失敗を思い出しました。
泊まってから数日後慣れないワインに酔って、フロントに慣れないフランス語で部屋の番号を言って、鉄の檻のような古典的エレベーターで、泊まっていた階のボタンを押し、フラフラと部屋の鍵を開けて、吃驚しました。部屋には洗濯物がドア付近まで干されていて、此れは自分の部屋ではない。急いで扉の鍵をかけ一目散にフロント迄戻りました。
フロントの老コンシェルジュか、フロントマンの怒ったこと、フランス語でわからないけど、怒っていることだけよく分かる。酔いの醒めない内にと平謝りで、名前を名乗って鍵を再度受け取り、穴があったら何処でもいいと、部屋に戻った。その場でメモ用紙にルームナンバーを書いて次の日からは、黙ってフロントで見せた。
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10年程前にも、始めて泊まったカイロのホテルで初日部屋の鍵を開けたら靴が二足目の前にある。フロントに戻り強く抗議すると、ダブルブッキングのミス。大きな部屋をお開けしましたと慇懃無礼。やっと部屋に入れたら、ノックがしてお詫びの印にフルーツをお持ちしましたと、
真夏のフルーツ一晩部屋の鍵と並んでありました。フルーツの歓迎嬉しいけどお腹は拒否です。眼はカメラで保存ねと、すかさず実行しました。
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最後に数年前、鍵を掛けずに外出してもいいような、町と古家を紹介して欲しいと、品の良いお年寄りに言われました。気持ちはわかるけど相当辺鄙な場所しか、そんなユートピアは、日本でも見つからないですよと申し上げました。辺鄙な場所のが鍵を掛けないと、熊でも猿でも侵入するげんだいですかね。
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9月10日 [人]

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コンシェルジュ孝
テレビで高級マンションのコンシェルジュが、職場のマンションの有名人の部屋に侵入したという。

鍵は最近では指紋認証や、瞳認証、その他の電子的な認証キーのシステムがあるだろうが、人間を部屋に入れるためには、人間が介在するのが最高の信用となるのだろうか。

人件費か、機械化によるコストカットか。サービス業に人間が何処まで関われるかは信用というものの考え方によるだろう。

コンシェルジュとは、執事という職業の名に由来すると聞いたことがある。
伝統ある家柄の中で、ある階級の人々は執事や、メード、運転手に、庭番、門番までの多くの人々を雇い入れ、信頼関係を持って暮らしを維持していた。

日本のマンションという言葉の氾濫や、メゾン、アパートメント、キャッスル等、本家とは別次元の名前で恥ずかしくもなく、むしろ誇らしげに生活しているのが実態だ。

何もかもが本家がいいといっているのではない。日本には、大家がいて、管理人さんがいて、清掃の人たちがいる。呉服屋の番頭さんは、お馴染みの家族構成から、趣味思考までよく知っていた。旅館の番頭さんも凄かった。

ホテルのドアマンが、顧客の顔を覚え、車のドアーが開いた音で、どの車種かわかるまでに記憶をし、ありとあらゆる心配りを出来るキャリアーを持っていたという話を聞いて感心した。

あるホテルのコンシェルジュは初老で銀髪の髪をきちんと整え、初めての客には静かにそのホテルの歴史から、御客が求めることには、過剰にならずに説明出来る能力の持ち主だと聞いた。

数十年前にある大会社の受付嬢が、まだおられるかと尋ねたら、無人の受付で館内の部署の電話番号がおいてあった。


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数年前、都内の百貨店の受付嬢に買い物のヘルプを頼もうと思ったら卓上の画面が3台、タッチパネル式で置いてあった。

数ヶ月前のあるセミナーで、レストランの顧客情報を数年前から、コンピュータで管理していたら、人間よりも行き届いた情報をマシンが処理してくれるので、人間の出番がなくて、これからどう人間はサービスしたらいいのかと質問者がいた。

人はもろもろの道具の機械化のお陰で、楽をすることができるようになった。機械は人間のように間違いを犯さない。でも人間の融通さで人が救われることは多い。

コンシェルジュに尋ねて、コンシェルジュに頼んで、コンシェルジュの信頼できる顔を見れば優雅な生活が、金はかかるができるのか。

本物のコンシェルジュになるためには
どんな教育が必要なのだろうか。コンシェルジュを使える人の教育が一番最初に必要なのかもしれない。

職業の名は不思議です。名前が先か、中味が先か。

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9月07日 [人]

1974年発刊の、イメージの翼・細谷巌アートディレクションから
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何処か尊敬する写真家アービング・ペンの香りが
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学校の大先輩に、グラフィックデザイナーの細谷巌さんという方がいらっしゃいます。12年ほど前に「細谷巌のデザインロード69」という本を出しておられ最近読みました。

69歳。アートディレクター50年。ROUTE66にかけた素敵な表紙の本です。
1935年生まれの細谷さん、本名はイワオさんだったのが広告業界に出てからホソヤガンのがいいと言われ、ガンさんになったそうです。名前でイメージがやはり大きく違いますね。

19歳で当時花形だった日宣美展の「特選」を受賞されたそうです。その時の先品がジャズをテーマのポスター、当時のレコードのジャケットを暗記するようになめるように眺めていて生まれたポスターなんだそうです。4x5のカメラで撮ってB全用紙にプリントして手書きの文字を描きこんだのだそうです。印画紙の水張り、ポスターカラーが印画紙では弾いて大変だったそうです。
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会社ではケント紙の水張りをしょっちゅうやらされていたそうです。学校で自分も始めての水張りをしたとき緊張したものです。重たい木枠の上にケント紙を置き、平たい刷毛でケント紙の表面をさっと濡らし満遍なく濡らしたら縁部分を紙のテープで四方を抑える。水平にした状態で日陰で1日乾かすと紙は翌日見事なほどに張りつめられている。手を抜くと紙が裂けていたり紙の張力で四方のテープが山打っている。なかなか難しい下地造りの作業でした。同級生が二階の窓から木枠を差し出し太陽に紙をあてて、先輩から怒鳴られた記憶もあります。

学校では、柿渋を和紙に何回も塗って木枠に張り込んだ、襖ほどの大きさの日本画家が使っていたようなものもありました。軽くて便利そうなので横浜金沢区にあった経師屋さんに別注で自宅用のも作って貰いました。
学生でもオーダーできる値段だったのでそれほど高くなかったのでしょう。

巌さんは、日宣美展へもう一度ポスターを応募します。草月流家元の「勅使河原蒼風」というレタリングを主体にした作品です。

その作品を作ったときの気持ちの文章が最高なので以下に引用させていただきます。

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小柄な男が田圃に囲まれた夜道を歩いている。木枠のついたB全のパネルを抱えて、東京都と神奈川県の県境にある男の家へと急いでいた。夏の夜なので、タニシや蛙たちの合唱が騒々しかった。夜空には流れ星がすうっと線を引き、澄んだ空気の中で見慣れている星座がキラキラと輝いていたという。(1956年の夏 作者21歳)

家は寝静まり、弱い光の裸電球が薄暗い部屋を照らしていた。
男は東京銀座にあるデザイン会社から終電車に乗って、終バスもなくなってしまった町田駅から一里(四キロ)の夜道をパネルを抱えて歩いてきたので、少し汗ばんでいた。

蚊帳の中で寝息をたてて眠っている家族に気づかれぬように、ちゃぶ台を部屋の隅に組み、パネルを静かに置いた。奥の部屋から「イワオ、遅かったじゃないの」と母の声がした。男は黙ったまま、乾いてしまっている瓶に入った大和糊に水を注いでいた。それから会社の引き伸ばし機で写してきた文字の書いてあるトレーシングペーパーと、六色のカラーペーパーをていねいに拡げた。蚊帳の外なので、蚊がひっきりなしによってきた。
男は不器用なので、すらすらとイラストとかパターンが描けなかった。どうしたら良いものかと、いろいろ悩み、考えた末、文字を使って作品をまとめようと決め、アイデアが浮かんだのが昨日だったので、締め切りが明日になってしまったのだ。中略〜
天地三十センチの文字を、なぞり慎重に裁ちばさみで切り抜いた。
六色の切り抜かれた文字は丸まって、平らに紙に貼るのに苦労した。
男は六輪の花がパット花器に活けてあるようにしたいと思っていた。

構成が決まると、切り取った文字を、ゆるく溶かしておいた糊を筆で塗り、糊が乾かぬうちにすばやく黒紙に押しつけ、手ぬぐいではがれぬように何度も強く擦った。擦ると糊がしみだしてきて、精液を連想させた。
男は二十歳だった。

相変わらず家族はすやすやと眠っていた。男の家はは半農半商で、祖父夫婦も健在の十一人の大家族だった。八人兄弟の三男坊である男が違った職業の仕事についたので、家族からはは全く仕事がわからなかった。
明け方父親が十枚ほどの雨戸を開け終わると、眠そうな顔をして家族が次々と起きてきて、男のやっていることを不思議そうに横目で見ながら、井戸端へと顔を洗いに出て行った。時計は五時をさしていた。

1956年の秋、日本宣伝美術協会の日宣美展特選のポスターを誕生のお話
何か、日本の宣伝の歴史を垣間見るようで感動的でした。
今ではコンピュータの画面操作で、文字フォントを自由に操り、レイヤーで動かして一滴の糊も使わず、操作ができる時代。

トレスコープ機の拡大と、カラーペーパーと、裁ちばさみと、大和糊の世界、凄い60年前の情熱を感じます。
因みに自分がデザインの勉強を始めた時代、コンピュータという言葉が聞かれ始めました。十代の自分にも何かとてつもない時代の予感がありました。でも手が人間の素敵なにない手だった時代の情熱を細谷巌さんという方は教えてくださった気がします。1965年の東京晴海でNTカッターという道具に出会いました。刃先が折れて使えるなどなんと最先端と感じた世界でした。

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潔い作品で、間が最高でスキがない構成で、空気が張り詰めていますね。

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その後の、細谷巌さんの作品世界、日本の古武士の精神を感じるのです。
繊細にして大胆、刀の切っ先の潔さとクールさを美しい厳しさと思えるのです。

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画家横尾忠則さんが描いた巌さんです。

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