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4月29日 [料理]

台北からギフトを貰いました。
断面図が、スターの文字通りスターフルーツ。南国の甘い魅惑的な味と香りです。

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4月12日 [料理]

image.jpeg指先に木の芽の香りが強く残っている。初夏が近い頃、毎年家の片隅の山椒の木の芽を摘む。
木の芽の佃煮を作るためだ。
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ラテン語でHERBとは、人間の役に立つ草というそうだ。和製ハーブの木の芽や、シソ、葱などはどれも香りが高い。
好き嫌いはあるだろうが、木の芽の佃煮は、湯気の立つ白いご飯に最高に合う。

鎌倉の作家、立原正秋さんの著書から知った。李朝の器はないが、種子島焼きの器に、今年は盛ろうと思う。以下は本からの引用です。 image.jpegimage.jpegimage.jpeg

2月15日 [料理]

虎豆を煮た。甘煮。
白と黒のパンダのような豆が、砂糖と醤油で虎に染まった。
昔の黒い漆器の底を八角にカットした器に盛って。
器はネットで関西から旅をしてやってきた。
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豆煮豆はとは豆煮豆 ムオン 回文


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回文は右から読んでも同じ文




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台南 [料理]

高雄市内に台南の料理の店を訪ねた。高雄の殆どの店が台南の味なのだろうが。
店の名は、「旺」地元の人が使う店という。
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18日麦酒と書かれた生ビール感覚の味は贅沢な味。客は冷蔵庫の扉を開けて自分んの所まで勝手に持ってくる。十代に見える男女の店員がノートらしきものに運ばれた麦酒の内容を、その都度控えているようだ。瓶の数を最後にチエックしても良さそうだが、店主の考え方なのか、高雄流か、台灣流なのだろうか。始めの皿でカラスミのスライスと、さつま揚げ風のもの。濃厚なチーズのようなカラスミがビールに会う。土地の人はあまり麦酒は飲まず、酒も頼まないという。接待のときは酒を飲むのだろうか。
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次々と運ばれる皿の数に驚く。お任せで美味しいものをと頼み、メインの魚の団子の入った鍋がドーンと来る。
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食間に食べたマンゴーと、梨のような緑の皮のフルーツの味が忘れられない。
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店の中には、見慣れた漢字と見慣れない南国の魚達のポスターが貼ってある。見慣れた漢字も、日本とは大きく意味が違うようだ。写真4.jpgimage.jpg写真2.jpg
店頭には食べた魚達が並んでいた。
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明日はレンタカーを借りて、映画「KANO」で有名になった嘉義市方面に向かう。
高雄の港付近のカラスミを多く売る店のなかで、カラスミをガス火で炙ってもらいカットしたツマミをホテルへ持って帰った。

2011 [料理]

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2011年3月の後半に、福島の原子力発電所見学のお誘いが、知人の建築事務所の方からあった。バスで現地の近くの宿泊所に泊まり、発電所を見学する東京電力主催のツアーだった。それ以前にも都内で開かれる東電のオール電化を中心とした総合展示会に参加したことがある。関東各地からバスを連ね会場になったお台場のホールに大規模な「電気展」が開かれていた。オール電化とは何なのか疑問を持って参加してみた。高層マンションでは安全のため電化生活が中心になっていると会場で聞いた。
今朝の朝刊には、電気飛行機と呼ばれる旅客機784の記事が載っている。
電機化により、機体の軽量化で燃料のコストを削減出来る旅客機。経済コストは下がっても、安全のリスクは計算済みなのだろうか。
我が家は、最近毎晩鍋が続く。オール電化を老化のため選択しようと思っていたが、ふと考えた。
アイルランドだかで昔ジャガイモが不作で多くの飢餓による死者が出たという。そのジャガイモは、南米アンデスの高地から移植されたという。
品種が一種類のためアイルランドのジャガイモは不作の年を迎えたという。その時南米のアンデスではジャガイモは何種類かのジャガイモが畑に植えられていたという。生活の知恵でどれかの品種は育ち収穫できたという。リスク分散は人間の長い間の知恵だ。
我が家の鍋の熱源は、卓上コンロと、プロパンガス、卓上IHSコンロ。
風呂とキッチンはプロパンガス、床暖は灯油、他は電機と使い分け。
値上がり最中の灯油や、電機に、値が安い中国産の木炭、卓上コンロのボンベと多彩だ。
オール電化はこれからも推進されるだろうが。一本化は危険だ。
選択肢は多いほど好いと思うのだが。人は便利さの中で失うものも大きい筈だ。
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鍋には八種類の野菜
素材が単一の鍋も好きだが、種類が多い方が豊かさも増す気がする。
今年の七草がゆは鉢の隅に芽が出たハコベを加えた。
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冬の朝日の中に、路上で永遠の眠りについていた、
黄金虫の緑の色は褪めずにいる。
そして
口を開け冬の光を待つ、瓶の群れ いざ!
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1958 [料理]

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以前ブログで一個の蜜柑の話を書いた。小学校の家庭科の時間、目玉焼きを焼き、何かが足りないと添え物で蜜柑をつけたらというような話が出た
。自分たちの班には生憎と蜜柑がなかった。昭和の30年代は何所の家庭でも、林檎や蜜柑が茶の間の周辺に転がっていた。確か仏壇には常時蜜柑が供えてあった気がする。その蜜柑をとりに授業中抜け出して家まで走って蜜柑をとりに戻った記憶がある。仏壇の蜜柑は小さなものが一個しかなかった。その蜜柑をポケットに入れて走って学校に行った記憶から半世紀が過ぎていることを知る。一個の蜜柑は薄く輪切りにされ班の人数分の皿の上に並んだ。何故か惨めな思いがその輪切りの薄さに今も残っている。
家に帰り目玉焼きはスプーンの水を少し黄身の上にかけると、黄色が鮮やかになると話した。祖母がその言葉を聞いて、男が料理なんぞに手を出すものではない!ときつく叱ったことも惨めさを助長しているのかもしれない。2013年今誰も手を出さなくなったかちかちの皮になった蜜柑が目の前にある。
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正月はウズラの卵を茹で、ハムを巻き、それをフライパンで炒めて孔雀卵なるものを作ってみた。鶉の卵の模様が面白くて眺めてから料理した。
パッケージの小さなプラスティックの部屋も見ていて厭きない。
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昔泥大島を染め抜く時に使ったという、板締め絞り用の板が何枚かある。固い桜の木に細い線を彫り込み、この板に糸を巻き付け何枚も板を重ね、それを絞ったようだ。墨がしみ込んだような縞模様が潔い。割れた板は伐って茶托にしている。和菓子の皿としても趣がある。
古い板も、料理の仕様で息を吹き返す様が面白い。
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我が家のカーテンは、幕だ、それも大漁旗の古いもの、大胆な文字や色が、元気を醸し出してくれる。その脇には躙り口ならぬ、蔵の戸がある。
今年もなにか古いものに命を吹き込みたい。永い眠りについていたものをゆり起こすのは気の毒な気もするのだが。
温故知新 好きな言葉です。
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2007 [料理]

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この町に来て十年近くの歳月が流れようとしている。東京の日本橋から70キロ近く離れた町の生活を振り返った。引っ越ししてきた町は茅ヶ崎の駅から徒歩20分。二十年以上も茅ヶ崎で居住した。始めはまわりが田圃だった住宅地もすっかり、住宅だらけになっていた。子供たちが小さな頃は田圃にオタマジャクシや鮒も走る光景が見られた。茅ヶ崎の市役所で昭和30年代以降の航空写真が大きく引き伸ばされてロビーにあったのを思い出す。駅の南部は狭く、北に大きな田園風景が広がる町だった。その田園の中に炭坑離職者の人達の団地が建っていく光景が印象的だった。あの写真は今もロビーにあるのだろうか。
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大きな川を二つ西に渡り、この町へ来て驚いたのが新聞のチラシが裏面は白紙のものが多いことだった。情報量が少ないと最初は嘆いた。大きなスーパーもなく、コンビニが主役の町だった。買い物は車で隣町へ出ることが多い。そんな中で生活に変化をきたしたのが、時給自足の法則だった。農家も近く、材料が手に入り易いので梅干しを手始めにつくった。次に干物、木の実のつまみ、薫製、魚は七輪の炭火で焼く。
何か食材を手軽に買える環境がないために自家製の魅力にはまった。
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大根も沢庵に漬け込む作業が定番になった。デパートやスーパーの沢庵の試食には手が伸びる。この町から北へ246号線の秦野にある農協では、周辺500以上の農家が野菜や果実を毎日「じばさんず」という施設で販売し盛況だ。干した大根が十本ほど千円で売られていた。ここで買った楤の木は地下茎を延ばし5本ほどになっている。
寒い日が続き、糠を手に入れて沢庵付けの作業を開始した。
近くでハイビスカスの真っ赤な花を見た。十二月も半ばと言うのに。
隣りのヘアーサロンに真っ赤なリースが競うように飾られていた。
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今年の家のまわりの紅葉は枯れるように散っていった。急激な寒さが訪れなく温かかったせいだろうか。朝に氷は張っていない。
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12月に入って隣町のスーパーで二回ほど蟹を買った。一度目は生のタラバガニ一杯千円、塩茹で戴いた。二度目は同じ時間帯に仕入れ料が多かったのか半額の五百円となったズワイガニを二杯買った。美味であり豪華な気分にワンコインでなれる世界とは何なのだろう。
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豊かさとは何なのだろう。
テレビでは多額の制作費の選挙CMが流れる。「とり戻そう!」「とり戻そう!」何を、取り戻したいのは貴方のプライド、貴方の権力の座。
「今と未来への責任」「責任ある改革」過去の責任は取られないのですか。無責任な改革をだれがのぞむのでしょうか。
何か伝わってこないのは選挙の時だけ聲を大きくする人が多いからなのでしょうね。多額の宣伝合戦をする空しい時代。選挙の在り方も変えなきゃいけない時代なんでしょうね。

1901 [料理]

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1901年製の「梅干し」を戴いた。今から百二十年前のその梅の姿は以外と、その面影をたっぷりと残していた。陶器の器の蓋を取ると梅の香と、塩の濃厚な香りが立上ってきた。
千葉の旧家の瓶の中に仕舞われて来たものだという。
その梅をつけた人は、どんな女性で、この年の天候はいかがなものであったのだろう。
百二十年間の存在証明のように、小さなその欠片を口に入れると塩の結晶の中に不思議な実の柔らかさがまろやかに舌先で溶けていった。意外なほど梅の赤みと、梅の姿をとどめている。
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小田原の老舗の店頭で江戸の中期か初期につくられた、梅干しをいつか見た。真っ黒でコールタールの萎びたような姿だった。溶けてかたちは失われていた。古いものでは室町時代の梅干しも、世の中には存在するという。花が咲き、実となり、百年以上の時を瓶の中で眠り続けたその姿に何か、命のようなものを感じた。
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我が家で昨年つくった梅干しを見つめた。まだ生まれたての若さと瑞々しさに溢れている。おまえさんこれから百年頑張ってみるかいと問いかけてみたくなる。
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2012年世界は慌ただしく暮れている。
21世紀が始まった1901年には、9月7日 - 清が列国(英国・仏国・米国・ロシア・ドイツ・日本などの11か国)と北京議定書(辛丑条約)に調印(外国軍隊の北京駐留を承認)されている。5月には、調理用ガスが宣伝されている。ガス灯から、台所への応用を東京瓦斯株式会社が行っている。「煮焼自在、軽便、安全」折からの女中不足から、主婦が直接煮炊きする事も多く、煙で髪が汚れずにすむ清潔さ、衛生的な面は、充分魅力的であったとある。実際に庶民に普及するのは第二次大戦後となる。と食生活世相史/加藤秀俊著にはある。
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中国に進出したスーパーの再開がニュースで報じられていた。
日本の百年、中国の百年、地球の歴史からは本の一瞬に過ぎないのだろうが、充分な重みを感じてしまう。

梅干しの溶けゆく蒼き星の冬 SILENT

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1958 [料理]

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1958年頃だったのだろう。小学校の家庭科で料理を作る授業があった。
男女共学の町立の小学校は、屋根がスレート瓦だった。校舎の裏側には滑り落ちたスレートの破片が沢山落ちていた。それを拾って砥石で研いで刃物まがいのものを造った記憶がある。料理は目玉焼きだった。目玉焼きには黄味の部分にスプーンで少し水を真上から垂らすと、黄味が濁らずにクリアー黄色い目玉焼きが出来ると教わったことを昨日のように覚えている。家に帰ってそのことを話すと、「男の子が料理なんぞに関心を持つんではない。料理は女がするものだ」と偉い剣幕で祖母にしかられた。そんな時代でもいつか大人になって自由になれたら目玉焼きを存分造れると、早く大人になりたいと思ったものだ。授業では料理の付け合わせに蜜柑でも輪切りにして添えるといいという話が出た。40人くらいのクラスで班を7人位にして授業を受けていたのだろう。自分たちの班には蜜柑がなかった。もしかしたらと、学校を抜け出し家迄十分位を走った。期待に反して家の仏壇には、萎びた蜜柑が一つだけ供えられていた。ポケットにしまい、学校で蜜柑は七つに切られた。何故か無性に切なかった。萎びたものでもあっただけましで、祖母も留守中でいなくて怒られなかったのが不幸中の幸いなのだが。そんな祖母は梅干しを例年漬けていいた。50年以上前の夏の日射しが目に浮かぶ。その祖母の孫も還暦を過ぎて梅干しを造るようになった。
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2012年の夏の雲が、紫蘇で染まった梅酢に映っている。
白雲の梅酢の海をわたりけり 
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祖母に頼まれて、背中に灸をすえた煙のことを思い出す。確か線香の火から、艾の小さな塊の山に点火した。

倫敦の聖火の煙り夏の海

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ふと Ralph Laurenと言うブランドは、他のブランドで出来ないものを一つ加えることを心情としていた事を思い出す。それは七色が限界の生地だったら、其所に加えることを一色の八色の世界を創りだすこと。七色の世界と八色の世界では何かが気がつかなくても違うということ。合理的な差別化の原点をそのブランドに見たことを思い出した。何かが違うがさりげなく。
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山の上の白い家も夏、見上げる我が家も夏に包まれている。
数日前、ミンミンゼミの声を聞いた。今朝はクマゼミの聲を。
一週間前には蜩の声を聞いた。
机上にある、豆腐屋のラッパ、最近やって来る豆腐屋の軽トラのがうまく吹く。
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トーフーーーと余韻は夏の夜にかけて
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1903 [料理]

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1903年明治36年東海道線大磯駅前に料亭「松月」が開業した。伊藤博文の料理長だった松尾千代吉が始めた店で、店の名は伊藤博文より贈られたという。明治30年より伊藤博文は大磯に住み始めている。駅前の松月がある地は、坂田とも呼ばれ古くは棚田だったのではないのだろうか。その田に月が写る様が名所となり、「坂田の月」と言われていたようなので、附近の黒松林と共に、月の名所だったのだろう。伊藤博文は料亭「松月」の胡麻油で調理した卵焼をことのほか好んだという。
今も大磯駅前に松月は営業を続けている。
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満月に桜の松月の光景。カラーがバランスが崩れ太陽になってしまった。作画はイラストレーターで。
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現在の松月を大磯駅ホームより望む
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下の画像は明治26年、東海道線が開通してまだ6年後の大磯駅の光景。右手の駅前の山は岩崎弥之助別荘、駅前には何も無く、附近の山も見事に樹がない。
当時は貨物と客車の混合編成だったのか。
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同様の場所の現在を撮ってみた。家が建て込み、山は樹が茂っている。中央の山が岩崎別荘からサンダースホームに至り現在もホームは健在。中央のクリーム色の家が「松月」開業当時の敷地の数分の一に現在はなったという。
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明治17年開設の海水浴場から百年以上、多くの人々が此の地を訪れたのであろう。
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1903年日本では、家庭料理ブームで村井弦斎の「食道楽春の巻」が大ヒット。この年台湾のバナナ商人が、神戸にバナナを運び込んでいる。食生活世相史より
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