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9月01日 [願い]

今日は夏風邪を引いてしまいましたimage.jpeg
夏風邪をひいて今宵の秋の風


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雀瓜転げし先猫の髭


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8月24日 [願い]

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最近亡くなられた、むのたけじさんの、以下素敵な言葉たちです。


今年5月3日の憲法集会での最後のスピーチ「日本国憲法があったおかげで戦後71年間、日本人は1人も戦死せず、相手も戦死させなかった」
どうしても言っておかなければならない体験を話します。太平洋戦争が1941年12月に始まり、私は従軍のために日本を発ち、翌年ジャワに上陸した。途中で立ち寄った台湾で、日本軍が作った「ジャワ軍政要綱」という一冊の本を見た。日本がジャワをどのように統治するかというタイムスケジュールが細かく書かれていた。ほぼその通りに事態は進んだ。その要綱の奥付に「昭和15年5月印刷」の文字があった。太平洋戦争開戦より約1年半も前だった。つまり、国民が知らないうちに戦争は準備されていたということです。

◆むのたけじさん死去 101歳のジャーナリスト
(2016年8月21日 朝日新聞)から抜粋
  朝日新聞記者時代に終戦を迎え、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と終戦の日に退社した。ふるさとの秋田県に戻り、横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊。1978年に780号で休刊してからは、著作や講演活動を通じて平和への信念を貫き通した。

 100歳になった昨年は戦後70年で「歴史の引き継ぎのタイムリミット」といい、講演で各地を飛び回った。今年5月3日に東京都江東区の東京臨海広域防災公園で行われた「憲法集会」でのスピーチで「日本国憲法があったおかげで戦後71年間、日本人は1人も戦死せず、相手も戦死させなかった」と語ったのが、公の場での最後の訴えとなった。

 太平洋戦争が1941年12月に始まりましたね。それからまもなく、私は従軍のために日本を発ち、翌年3月1日にジャワに上陸した。途中で立ち寄った台湾で、日本軍が作った「ジャワ軍政要綱」という一冊の本を見ました。入手方法は秘密ですが、日本がジャワをどのように統治するかというタイムスケジュールが細かく書かれていた。私がいたそれから半年間、ほぼその通りに事態は進んだ。

 その要綱の奥付に「昭和15年5月印刷」の文字があった。ジャワ上陸より2年近く、太平洋戦争開戦より約1年半も前だったんです。つまり、国民が知らないうちに戦争は準備されていたということです。

 もしもこの事実を開戦前に知って報道したら、国民は大騒ぎをして戦争はしなかったかも知れない。そうなれば何百万人も死なせる悲劇を止めることができた。その代わりに新聞社は潰され、報道関係者は全員、国家に対する反逆者として銃殺されたでしょう。

 国民を守った報道が国家からは大罪人とされる矛盾です。そこをどう捉えればいいのか。それが根本の問題でしょう。高市早苗総務相の「公平な放送」がされない場合は、電波を止めるという発言を聞いてそう思ったのです。公平とは何か。要綱を書くことは偏った報道になるのか。それをだれが決めるのか。

 報道は、国家のためにあるわけではなく、生きている人間のためにあるんです。つまり、国民の知る権利に応え、真実はこうだぞと伝えるわけだ。公平か否かを判断するのは、それを読んだり見たりした国民です。ひどい報道があったら抗議をすればよい。総務大臣が決めることじゃないんだ。そんなのは言論弾圧なんだ。

 報道機関は、自分たちの後ろに国民がいることをもう一度認識することです。戦時中はそのことを忘れておったな。いい新聞を作り、いい放送をすれば国民は応援してくれる。それを忘れて萎縮していた。

 戦争中、憲兵隊などが直接報道機関に来て、目に見えるような圧迫を加えたわけではないんです。報道機関自らが検閲部門を作り、ちょっとした軍部の動きをみて自己規制したんだ。今のニュースキャスター交代騒動を見ていて、私はそんなことを思い出した。報道機関側がここで屈しては国民への裏切りになります。

 「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングが、安倍政権になってから世界61位まで下がった。誠に恥ずかしいことで、憂うべきことです。報道機関の踏ん張りどころです。(聞き手・木瀬公二)

◆むのさん、反戦への思い貫く 憲法改正派にも耳傾ける
(2016年8月21日 朝日新聞)

 むのたけじさんは、終戦の日の8月15日を特別な日と考えていなかった。「何かの記念日を定めても社会は変わらない。365日の生活の中で考え続けないといけない」。その日行われる黙禱(もくとう)にも反対で、「黙っていても何も変わらない。声を張り上げよう」と訴えた。

 朝日新聞記者時代は中国やインドネシアなどに従軍。普通の人々が、相手を殺さないと殺される現場を取材し続けた。その戦争を「臣民」の名で「やらされた」人ばかりで、「やった」人がいないことが戦争責任をあいまいにし、今も近隣諸国と緊張関係が続く原因だと指摘した。

 終戦直前、3歳の長女が疫痢で死去。戦時下のため薬の入手が困難で、病状が悪化した日、出征する医師の壮行会で地域の医師全員が留守だったことなどが重なって助けられなかったことが、反戦活動を続ける原動力になった。

 徹底して憲法改正反対を訴える一方、「憲法を変えようとする人と、変えまいとする人がいるのが普通で、それが正常なんだ」とも言い、改正派の意見にも耳を傾けた。

 ジャーナリストであることの根底には、幼い頃に見た懸命に働いても貧しかった実家と、何もせずに豊かに暮らす旦那衆の姿があった。「不当に貧しい者がなぜ存在するのか。不当に富んでいる者がなぜ威張り続けるのか。これを変えない限り人間全体が大きく呼吸をすることは望めない」。常に弱者の立場に立った発言を続けた。

戦争責任より、戦後責任が私たちにはあります。しっかりと明日へ伝えます。むのさんの御冥福を祈ります。

十一月十四日 [願い]

塔ノ沢駅.jpg
昨日の午前中は箱根塔ノ沢にいた。箱根登山鉄道の塔ノ沢駅はトンネルに挟まれた本のわずかの空間にプラットホームがある無人駅だ。迫り来る山の中腹には阿弥陀寺がある。
山に囲まれ駅前も深い渓谷の上にある。森林浴をしながら山道を阿弥陀寺の山道方面に向かう。駅前の古木の紅葉軍は十一月の終わりころに紅葉が最高になるという。観光客のカップルが一組だけ降りて山道を下って行った。



            赤い電車の灯が隧道に冬運ぶ    むおん


福住楼.jpg
山道から国道1号線の車の音が上がってくる。見下ろすと塔ノ沢の元湯という老舗旅館の銅ぶきの屋根。水戸光圀公や伊藤博文や勝海舟も訪れた宿で、阿弥陀寺に位牌がある皇女和宮様が亡くなった宿でもあるという。今は塔ノ沢環翠楼旅館として創業400年の歴史を刻むという。かっては湯湯治客しか留めず一泊などはできない時代もあったという。同旅館のHPから、明治10年(1877)静寛院宮 和宮様が病気療養のため環翠楼へ登楼。環翠楼に村の子供達を招き菓子などふるまわれ村人と親交を深められる。同年当館にて身罷られた。 明治10年(1877)アメリカのエジソンが蓄音機を発明。
明治13年(1880)篤姫が和宮終焉の地となった環翠楼に行きたいと登楼。流れる早川を眺めながら号泣されたと言われている。

「君が齢 とどめかねたる 早川の 水の流れも うらめしきかな」環翠楼で、その時の心情を句にされ残されています。 と云う。





阿弥陀寺.jpg
急な山道を登ること30分杉並木を抜け、阿弥陀寺に着く。250年前に塔ノ峰の反対側の集落久野にあった庄屋の家を移築して阿弥陀寺は現在にあるという。その巨大な幅二尺(60センチ)以上はありそうな大黒柱が見事だ。阿弥陀寺の大黒さまのお話では建物は地震の際山の斜面に寄りかかるように、山側に倒れるように建てられ、巨大な大黒柱も塔ノ峰を越えて山頂から引き摺り下ろされたのだろうという。250年前のその光景を思い浮かべると凄まじい人々の願いと、移築の光景が目に浮かんできた。諏訪の御柱祭のような晴れの舞台でもあったのだろう。そもそも寺は修行僧の籠った奥の院が今から600年前から始まっていたようで歴史は深い。寺の信者たちが寄進したという江戸時代のものだあろう百万遍念仏を唱える巨大な数珠の回る装置が珍しい。寺には阿弥陀様をはじめ、皇女和宮様が徳川14代将軍のために祈ったという、家康が戦場にも運んだという黒本尊阿弥陀仏も貴重な拝観ができた。








        阿弥陀寺の石仏の願い秋深し    むおん








九月十五日 [願い]

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   喉が痛い一日 薬を飲みました 風邪かな




八月二十四日 [願い]

石積み願い.jpg
奥州平泉の中尊寺境内にて、小さな山門をくぐりその山門の梁に小石が載せられていました。
多くの人々が何を願い何を祈りながら石を積んだのか。はっとさせられる光景でした。
願いが届きお礼参りに来られる方もいるでしょう。願いが叶わぬ時でもまた人は何かに願いを託すのでしょう。小石たちは支えあうように身を寄せ合っている人々の姿にも見えてきました。
ある夏の日の、小さくおおきな光景です。


心積む石の数ほど虫の声  むおん


みちのくの夏の門ぬけ石を積む  無音


ねがい積む夏の空へと願い積む   ムオン




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